エルサレムに入城されたイエス様は数日後にはご自身が祭司長、律法学者に引き渡され、死刑宣告を受けて罪人として十字架につけられることはすでにご存じだった。(マタイ20:18)

イエス様が最も過酷で激しい状況の時に、必要とされたのは誰もまだ乗ったことがない子ろばであった。子ろばは弱々しい頼りない存在だが、ここに私たちの姿を見ることが出来る。
私たちは思い悩む時や自分中心に物事を考えてしまうことがある。そんな時、子ロバを用いられてその背に乗り、揺られつつ十字架に続くエルサレムに入って行かれたイエス様の中に、自分を置き心を静めて見つめ直す時、悔い改めて委ねる人、信頼して信仰して人に変えられていく。神様の御手によりイエス様に倣う者につくり変えられ新しい人として歩んでいくことが出来るようになる。
群衆はイエス様を「ホサナ」(救って下さい…)と叫び熱狂と歓喜の中で迎えた。エルサレムに入場したイエス様を弟子や群衆はローマの支配からの解放を成し遂げる「王」と認識していたが、イエス様が目指しておられたのは「罪の支配からの救い、解き放ちの王」であった。ここに大きな食い違いがあり、やがて人々は「十字架につけろ」と叫ぶようになる。十字架のイエス様と群衆の間には修復が不可能な「関り、関係の分裂」が生まれた。しかしイエス様は、すべての人の罪を引き受けられ、激しい痛みと苦しみの中で私たちのために「とりなしの祈り」を父なる神様に祈られた。これにより私たちは今、神様に招かれて育まれて、交わりを深めることを許されている。
今週も感謝して委ねつつ歩む者でありたい。

                            (永田洋長老)