炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。   使徒2章3節
 
聖霊は、炎のようなお方です。

闇を照らす
聖霊が炎のようなお方と言うとき、それは第一に、炎が闇の中で光を放ち、闇を照らすように、聖霊は、わたしたちの闇の部分を照らされるお方ということです。クリスチャンとして歩む、それは、決して、立派になって行く歩みではありません。わたしたちは、クリスチャンとして歩めば歩むほど、自分の闇の部分を照らされるのです。クリスチャンとして歩む、それは、自分の中にある闇を、罪を照らされて、神様に対する悔い改めが深まって行く歩みなのです。

不純物を取り除く
第二に、それは、わたしたちの内にある不純物を取り除かれるお方ということです。わたしたちの内側には、いつまでも、「自分でやって行ける」という自我が居座っています。神様は、そのわたしたちの思い、自我さえお用いになります。けれども、あるときには、わたしたちが、神様よりも、自分に頼っているということに気づかせ、神様に明け渡すように、神様に手放すようにと、わたしたちを招かれるのです。

心を燃やす
第三のこと。聖霊が炎のようなお方と言うとき、それは、わたしたちの心を熱くし、燃やしてくださるお方ということです。知識として知っているということと、聖霊により燃やされた信仰、それは、もう冷たくなってしまったステーキと、今鉄板で焼いた熱々のステーキほどの差があるのです。

もう一つ、覚える必要のあることがあります。聖霊が、闇を照らされるというとき、それは、わたしたちの闇を、罪を照らし出し、暴き出して、後はほったらかしということでは決してありません。聖霊は、わたしたちの闇を照らし出し、罪を照らし出し、同時に、そのわたしたちをキリストのもとへと導いて下さるのです。わたしたちは、聖霊によって、キリストを示していただいて、悔い改め、手放し、心燃える経験をさせていただくことができるのです。

(前川隆一牧師)