深い淵から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。         詩編130編1~2節
 
「深い淵」ということば、それが、今日のこの鍵になることばです。

神との間にある淵
では、「深い淵」とは何なのでしょうか。それは、人間の罪と愚かさによって、生じた神様との間の淵です。ヨナは、自分の愚かさと背きの罪により、大飲み込まれた大魚の原の中で、「大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。」と言いました(ヨナ2:6)。ヨナは、自らの罪と愚かさによって、神様との間に深い淵がある。そんな経験をした預言者でした。

人と人との間にある淵
深い淵、それは、そのような神様との断絶ととともに、人間関係の断絶としても経験されることがあります。ヤコブは、14年ぶりに故郷に帰って来ましたが、自分の罪と愚かさにより、兄との断絶という課題にもう一度直面させられました。そして、一人残って、神様と、それこそ、レスリングをするような祈りの格闘をすることとなりました。それは、まさに、神様との間にある深い淵の経験であり、兄エサウとの間にある深い淵の経験ということでした。

死という淵
今日の福音書は、死という越えることのできない淵に立たされていた人々にイエス様がどうかかわられたかということが記されているところです(ヨハネ11章1~45節)。イエス様の人間的な、あまりにも人間的なお姿、それは、取りも直さず、人間と神様との間にある深い淵に、イエス様が立って下さったできごとです。

死という越えることのできない淵にたたずむ人々にイエス様はよりそい、その死を超えるいのちの道を開くために十字架への道を歩んで下さいました。そして、そのイエス様は、神様の義という越えることのできない淵にたたずむわたしたちに、また、人間関係という自分の力では越えることのできない淵にたたずむわたしたちにも、よりそい、その淵を越える者として下さるのです。

(前川隆一牧師)