しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。                       マタイ3章15節

イエス様が、ヨハネから洗礼をお受けになった場面です。
我々
 第一に、イエス様にとって、この洗礼は必要なことでした。イエス様は、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃいました。この「我々」というのは、だれのことを指していたのでしょうか。イエス様は、ヨハネのもとに洗礼を授けてもらおうと立ち並んでいる群衆をも含めて、「我々」と言われました。群衆、そして、もっと言えば罪人であるわたしたち一人ひとりに連帯して、「我々」と言われました。神であり、神の御子であるイエス様にとって、罪人であるわたしたちに連帯するということ、罪人の立場に立つということは、「正しいこと」、どうしても必要なことでした。

正しいこと
とともに、イエス様の洗礼、それは、わたしたちにとって「正しいこと」、必要なことでした。イエス様は、「正しいこと」と言われました。この「正しいこと」、それは、山上の説教の中で、「義」と言われているのと同じ言葉が使われています。その「正しさ」、「義」を贈り物としてわたしたちに与えるために、清い生涯を歩み、十字架で死んで下さった。それが、洗礼から始まるメシアとしての歩みでした。

洗礼
では、わたしたちは、この贈り物として差し出されているイエス様の「正しさ」を、どのようにして受け取ることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けることを通してです(マルコ16章16節)。わたしたちが、イエスの名による洗礼に与る。それは、イエス・キリストが十字架で死に、復活されたように、そのキリストの十字架と復活と一つとされて、古い人に死に、新しい神の子として誕生するということを意味しています。そして、この古い人に死に、新しい人として誕生するという洗礼という原点に立ち返り立ち返りして行く。それが、信仰生活であるのです。

(前川隆一牧師)

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