「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」                   ヨハネ7章37~38節
 
 仮庵の祭りのクライマックスに、イエス様が立って叫ばれたおことばです。

渇きをいやすお方
39節で、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」と記されています。霊、聖霊が、ここでは、水ということばで表現されているということです。聖霊は、水のようなお方です。では、聖霊が水のようなお方と言うとき、どのようなことを意味しているのでしょうか。それは、第一に、わたしたちの渇きをいやして下さるお方ということです。わたしたち人間には、神のかたちに造られた者としての空洞があるのです。それは、ほかのものをもってしては決して満たすことができない空洞なのです。その空洞をみたすことのできるお方、それは、神ご自身であり、聖霊であるということです。

清めてくださるお方
第二に、聖霊が水のようなお方と言うとき、それは、わたしたちの罪を清めて下さるお方ということです。わたしたち人間は、神のかたちに造られた者として、清く生きたいという願いをもっています。ジョン・ウェスレーは、「人間の罪が、ある瞬間に、聖霊の超自然的な働きによって根絶され得る」と言いました。そのような瞬間が訪れるまで、わたしたちは、いつまで待つ必要があるのでしょうか。待つ必要はないです。わたしたちは、キリストの名による洗礼を受けたとき、キリストの十字架の死と結ばれて、古い人に死んだのです。そして、キリストの復活と結ばれて、新しい人に生れたのです。あの洗礼のときに、わたしたちは、「聖霊の超自然的な働きによって罪が根絶される」経験をしたのです。

養い育てて下さるお方
第三に、聖霊が水のようなお方と言うとき、それは、わたしたちの命を育み、養い育てて下さるお方ということです。わたしたちは、もはや救われるために何かをする必要はなく、救われた者として他の人を愛し、仕える者とされたのです。そして、そのようにして下さるお方、それが、聖霊であるのです。

(前川隆一牧師)

本日の礼拝はこちら