「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」
マタイ13章30節
イエス様による「毒麦のたとえ」です。
正しく現実を見る
今日覚えたい第一のこと、それは、正しく現実を見るということです。教会、それは、世から救われ、召し出されて、キリストのからだとされた群れです。けれども、義人にして同時に罪人、この地上にある限り、罪が混ざり込んでいるのです。それを、世から救われ、召し出された教会は、完全でなければならない。罪があってはならないと考えると、そこにつまづきが起こって来るのです。わたしたちの現実の生活の中で、それが、教会の中であっても、それが、毒麦かどうか見分けがつかないという現実があるのです。
人間の解決
第二に、人間の解決ということに心を向けたいと思います。どうして、わたしたちは、毒麦かどうか、早急に、自分で決着をつけてはならないのでしょうか。それがはっきりと罪だと分かる場合、それを正しく裁き、教会を守るということが必要な場合があります。とともに、それが毒麦かどうか分からないという場合、わたしたちは、早急に、自分で決着をつけようとしてはならないのです。それは、自分の能力以上のことをすることになるからです。自分を神の座において、人を裁くことになってしまうからです。
神の解決
第三に、そうではなく、神の解決に委ねるべきであるということをイエス様はおっしゃいました。実は、わたし自身も、かつては毒麦だったのです。そのわたしが、キリストの十字架の死と復活を通して、そのことを信じる信仰によって、新しい者としていただいたのです。キリストに目を留め、そのことを通して、罪を罪として認識する識別力を身につけることがたいせつです。それとともに、わたしが、キリストによって救われ、成長させていただいたように、あの人にも、この人にも、キリストのまなざしが注がれている。あの人もこの人も、救われ、変えられて行く可能性がある。そのような建て上げて行く愛をいただいて行くことがたいせつなのです。必ず、正しく裁いて下さる主に委ねつつ、リンゴの木を植え続けて行く。それが、わたしたちに求められていることがらなのです。
(前川隆一牧師)