キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。Ⅰペトロ3章18節

 
今日の箇所の少し前、8節の前のところには、「正しいことのために苦しむ」と表題がつけられています。内容的に、その続きの部分です。

十字架を見上げるように
ペトロは、第一に、十字架を見上げるようにと勧めています。非難を受ける、攻撃を受ける、それは、被害者としてそのような非難、攻撃を受けるということです。また、わたしたちの罪の現実ということも、アダムが罪を犯したがために、その罪の現実をわたしたちは背負わされたのです。そんなわたしたちに寄り添うお方として、キリストは、人となって下さり、それに従って歩むことができるようにと、先立って苦しみを受けて下さったのです。とともに、わたしたちは、加害者でもあるのです。わたしの身代わりとしてキリストは十字架で死んで下さったのです(18)。

復活を見上げるように
第二に、ペトロは、復活を見上げるようにと勧めています。18節の後半、「キリストは、肉では死に渡されましたが」というのは、キリストがわたしたち罪人の代表として死んで下さったということでした。そして、「霊では生きる者とされたのです」、それは、わたしたちの罪人の代表として死んで下さったキリストを神が生かして下さった、ということです。キリストの復活ということです。そして、その復活に、わたしたちも洗礼を通して与る者とされたのです。

昇天を見上げるように
さまざまな戦いに直面しているクリスチャンに向かって、ペトロは、第三に、キリストの昇天に見上げるようにと勧めています(22)。キリストは、わたしの罪を身に受けて、肉では死に渡されました。けれども、そのキリストを父なる神様は、復活させて下さいました。そして、今、キリストは天において、わたしたちのことをとりなして下さっているのです。すべては、主のご支配のもとにあるという天の視点を与えられることを通して、わたしたちは、さまざまな戦いの中にあって、新しい視点を与えていただくことができるのです。

(前川隆一牧師)