わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。                     Ⅱコリント3章18節

モーセの顔が輝いたときに人々が覆いをかけてくれるよう頼んだできごとに比較して、聖霊による自由ということが語られているところです。

モーセの顔の輝き
モーセの顔の輝き、それは、主なる神様との親しい交わりの中に入れられることを通して、神様の栄光の光を反映させて輝いた輝きでした。そして、それは、やがて、消えて行く栄光でした。モーセは、わたしたちと同じ人間ですから、やがてその栄光の輝きは消え、人間モーセに戻って行きました。また、モーセは、自分の顔が輝いているのを知り、顔に覆いを掛けたということが言われています。それは、人々が、神の聖さに直面することを恐れたからでした。

キリストの輝き
それに対して、イエス様の栄光の輝き、それは、神様の栄光の輝きを反映させてということではなく、イエス様ご自身が内に持っておられる輝きが外の向かって輝き出たできごとでした。そして、それは、この後、人となられたその肉体に覆われて隠されてしまいますが、その内側では、輝き続ける輝きでした。けれども、イエス様は、その輝きを隠して、ご自身の栄光をわたしたちが思いもしないところに見ておられました。それは、ご自分が十字架で死ぬということ、そして、そのことを通して、わたしたちに救いをもたらすということに栄光を見ておられました。

栄光から栄光へ
わたしたちは、自分に栄光を帰して行く生き方、また、線を引いて、人を、あるいは自分を切り刻んで行く生き方ではなく、愛し、包み、生かして行く、そんな生き方に歩む者となって行くようにと招かれているのです。では、そのためには、どうしたらよいのでしょうか。それは、主に向き直るということです(16)。そのことを通して、「栄光から栄光へと」歩むことができるのです(18)。もちろん、それは、人間の栄光ではありません。わたしの歩みを通して、神の栄光が現れる、そのような歩みへと、わたしたちは招かれているのです。

(前川隆一牧師)