この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。 ルカ13章16節
「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」と表題のつけられている箇所です。
霊の回復
第一に、イエス様のいやしということ。イエス様のいやし、それは、この女性の霊の部分が回復し、その結果として、肉体の病がいやされたというできごとでした。だからこそ、彼女は、いやしていただいたとき、「神を賛美した」のでした。
会堂長の偽善
さて、そのように、いやしを行われたとき、会堂長は、つぶやきました。会堂長は、群衆にこう言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」ここに、イエス様が、会堂長に向かって、偽善者と言われた所以がありました。彼女がいやされたとき、彼の内に沸き起こった、それは、まずこのできごとをともに喜ぼうという感情ではなく、安息日に、人々がこのイエスという男のもとに、次々に病人を連れて来たとしたらたいへんなことになるという心配でした。
アブラハムの娘
そして、第三のこと、このいやされた女性のことを、イエス様はアブラハムの娘とおっしゃいました。アブラハムは、恵みにより、信仰によって救って下さる神を体験しました。そして、アブラハムの子として、そのことを経験した、それがザアカイであり、今日のイエス様によって病をいやしていただいた女性でした。
わたしたちも、イエス様の十字架によって、霊の回復をいただき、肉体のいやしをいただく。また、肉体の病は回復することがないように見えるときにも、霊の回復をいただいて、健やかに生きる者としていただく。それが、この礼拝のときなのです。そして、わたしたちもアブラハムの子として、恵みにより、信仰によって、神の救いをいただく。そのことを通して、減点主義ではなく、加点主義の世界に生きる。イエスが受けるべき神からの報酬さえわがものとしていただき、大胆に仕え、愛する者として生きる。それが、わたしたちの信仰生活なのです。
(前川隆一牧師)