はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。            マタイ25章40節
 
「すべての民族を裁く」と表題のつけられている箇所です。

最も小さい者とは?
このたとえで問題になるのは、「最も小さい者」とはだれかということです。ひとつの解釈として、「それは、キリストに従う者たち、キリストの弟子のことである」という解釈があります。確かに、そのようなみことばもあります(マタイ10章42節)。けれども、この箇所に関して言えば、少し範囲が狭いように思えます。

出会う人々にご自身を隠しておられる
もう一つの解釈は、わたしたちが日常生活の中で出会う様々な人々、その人々に、キリストがご自身を隠しておられるという解釈、考え方です。キリストが、わたしたちが出会う人々の中のある人に、ご自身を隠しておられるとしたらどうでしょうか。わたしたちは、この人がキリストだろうか、いやこの人だろうか、とノイローゼになってしまうか。あるいは、仕えて仕えて、疲れ果てたところに、キリストが現れ、どうしようもなくなってしまうことにもなりかねません。

最も小さい者
「最も小さい者」とはだれか。そのことを解く鍵それは、羊の側に置かれた人々が、自分のした業を忘れてしまっているということです。「最も小さい者」という小ささ、それは、神の助けなくして生き得ないことを意味します。キリストの十字架、それは、罪のないお方が、わたしの、あなたの罪を負って、十字架で死んで下さったできごとでした。そのキリストの愛の大きさを知れば知るほど、羊の側に置かれた人が、「そんなことをしましたか」と言ったように、自分がどれほどの愛のわざをなしたとしても、小さなこと、とるに足らないことに思えるのです。逆に、キリストの救いに与っていない人は、「あんなことをしました」「こんなこともしました」と、自分の行いによって、自分の正しさを証明しようとします。けれども、キリストが十字架でいのちを献げて下さったみわざに比べ得るような愛のわざはないのです。むしろ、自分の義を言い立てるところに罪が残るのです。

(前川隆一牧師)

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