わたしたちは、このような希望によって救われているのです。ローマ8:24
 

困難の中にある世界
新型コロナウィルスのパンデミックや九州をはじめとする日本各地での豪雨。この数ヶ月の間で、私たちはたくさんの危機を身近に感じてきました。そんな中、このような困難は、世の終わりの前兆として起こっているのではないかという考えをもつ方々もおられます。確かに聖書では世の終わりがあることを認めています。しかし、極度に恐れたり、混乱する必要はありません。真実な神様のみ言葉が語られている「聖書」が世の終わりについてどう語っているのかを見ていきたいと思います。

毒麦のたとえ
イエス様が語られたたとえ話の中に「毒麦のたとえ」があります。ある人が種を蒔きますが、その人の敵がやってきて、勝手にその人の畑に毒麦の種を蒔いてしまいます。そのことがわかった僕(しもべ)たちが困ってしまい主人に相談します。すると、主人は麦が収穫するまで、そのまま両方とも育て、刈り入れのときに、毒麦を集めて処分しなさいと命じるのでした。主人の言う通りにしたがったところ、収穫の時には、良い麦と毒麦がはっきりと区別でき、しっかりと良い麦だけを収穫することができたという話です。実はこの話は、イエス様が世の終わりについて語られたみ言葉です。

毒麦のたとえの意味
刈り入れの時は、この世の終わりの時です。そして、「良い麦」は神に従う「御国の子ら」で、「毒麦」は反対に神に逆らう「悪い者の子ら」です。今の世には混在している両者が、やがて来る世の終わりに、しっかりと判別され、それぞれにふさわしい報いを受けるというのがこのたとえの意味です。なんだか怖くなってしまうようなたとえ話です。

神の目から見れば皆が毒麦?!
では、いったい誰が毒麦と言えるのでしょうか。聖書では「全ての人が罪を犯した」と語られています。神の目にあっては、人はだれしも罪人なのです。どんな善行を積んだ人も、徳を高めた人も、罪のない人は一人もいません。つまり、神の目には、人は皆、世の終わりのときに裁きを受けてしまうような毒麦なのだと語られています。

だからこそ救いが必要!
では、迫り来る裁きの日を恐怖の中、待つしかないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。神は罪人の私たちを救うために、イエス・キリストをこの地に送ってくださいました。そして罪人の身代わりとして十字架にかかられ死なれました。この主を信じるものは罪の赦しと永遠の命が与えられます。これこそが聖書が語る救いの約束です。私たちは、主イエス・キリストの十字架の救いによって、神に反する毒麦から、神に愛される良い麦として新しくされたのです。この主の救いを受け取っていきましょう。

新型コロナウイルスは世の終わりの前兆なのか?

聖書では、世の終わりが来ることが確かに語られています。しかし、それがいつであるのかは、私たちの知るべきことでもないとも語られています。世の終わりがいつ来るのか、そして、どのようにやってくるかは、「神のみぞ知る」事柄です。新型コロナウィルスに関しても、このことにどのような意味があるのか、私たちには隠された部分が多いでしょう。しかし、だからこそ、私たちは主に委ねて歩みを続けていくのです。諸説ありますが、マルティン・ルターの名言の中にこんなものがあります。「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」

形あるものは、いつか必ず終わりを迎えます。その日を、ビクビクして恐怖の中迎えるのではなく、終わりがあるからこそ、今に精一杯目を向けていくのです。神様はあなたに罪の赦しと神とともに生きる使命を与えてくださっています。あなただけのリンゴの木が今日もきっとあるはずです。その使命に生きてまいりましょう。あなたのリンゴの木を今日も神様とともに植えていきましょう。

(松村雄志師)

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