新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」マルコ2章22節

  今日はまず、使徒書のコリント第二の手紙3章1~16節のみことばに注目しましょう。

推薦状
 初期のキリスト教会において推薦状が大いに役に立つということがありました。たとえば、伝道者がどこかの教会を訪問する場合、自分が評判のよい者であることを証明する手紙を持ち歩いたりすることがありました。それは、偽教師、偽預言者が横行する現実があったからでした。そのような現実の中で、パウロは、コリントのクリスチャンに向かって、「わたしの推薦状は、あなた方自身です」(Ⅱコリント3章2節)と言っています。書かれた一片の紙切れではなく、生きているコリントのクリスチャン一人一人がパウロの推薦状だと言っているのです。なんと光栄なことでしょうか。

契約
 第二に、「契約」、「新しい契約」ということが言われています(Ⅱコリント3章6節)。契約とは、「二人以上の当事者の意思表示が合致することによって成立する法律行為のこと」です。けれども、神と人間との契約、それは、神からの一方的な契約です。神がアブラハムと契約を結ばれたときにも、アブラハムを深い眠りに陥らせ、神様お一人で裂かれた動物と動物との間を通られました。そして、神が一方的に、わたしたちの救いのために送って下さった救い主、それがイエス・キリストというお方なのです。

覆い
 そのようなすばらしい契約を神様が結ぼうとして下さっているにもかかわらず、多くの人々はそれが理解できません。そのことをパウロは、「覆いが掛かっている」と表現しています(Ⅱコリント3章15節)。それは、人間的な基準によって、神様のことをはかろうとしているからです。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(Ⅱコリント3章16節)。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ2章22節)。わたしたちは、キリストによって差し出されている救いの契約を恵みとして受け取り、神の推薦状として生きるように招かれているのです。

(前川隆一牧師)