イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。マタイ9章9節
「マタイを弟子にする」そう表題のつけられているところです。
主に従ったマタイ
第一に、イエス様に招かれて、新しい世界に踏み出して行ったマタイに注目したいと思います。破滅への道を歩んでいたマタイが、イエス様の弟子となった。そして、人を愛し、人を建て上げる人となって行った。これは、奇跡と言えることでした。しかも、イエス様は、十把一絡げではなく、マタイをマタイとして、お用いになりました。マタイの書くという才能を用いて、このマタイによる福音書の元となる物語を書かせられたのでした。
自分の世界という枠から出ようとしなかったファリサイ人
第二に、自分の世界から出ることができなかったファリサイ人に注目したいと思います。ファリサイ人のファリサイということばが、分離という意味のことばであるように、自分たちは、聖い者、徴税人や罪人とは交わることはない聖い存在として、距離を置き、線を引き、壁をつくっていた人たちでした。言わば、律法を守るという偶像を握りしめて、自分の枠から出ようとしない人々でした。
キリストの招き
第三に、マタイを、そして、実は、ファリサイ人をも、招いておられたイエス様に注目したいと思います。イエス・キリストの中に、罪人と呼ばれ、蔑まれていた人たちは、神の憐れみを見ました。逆に、ファリサ人、当時の宗教的指導者たちは、それを妬みました。そして、その妬みが、最終的には、イエス様を十字架へと追いやって行ったのでした。けれども、イエス様は、その十字架の死と復活を通して、信仰により、罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受け継ぐことができる救いの道を開いて下さったのでした。
わたしたちは、マタイのように、創造的な人生、そして、ユニークな人生を歩むようにと招かれています。とともに、クリスチャンとなったわたしたちもまた、あのファリサイ人のように、神以外のものを偶像とし、自分の世界という枠から出ようとしない罪の性質をもっているのです。聖霊により、そのことに気づかせていただき、それを明け渡し、新しい人として、神様のみこころに歩んで行くようにとわたしたちは招かれているのです。
(前川隆一牧師)