それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
マタイ8章34節
最初の受難予告とそれに続くイエス様の教えとです。
サタン、引き下がれ
この箇所は、信仰をもたない人々から、「キリスト教徒は、なんと狭く、堅苦しい宗教であるか」と非難を受ける箇所でもあります。第一に、「清濁併せ飲んでこそ、ほんとうの意味で、世の中を渡って行けるのだ。キリスト教は、なんと狭い宗教だろう」そんな声にわたしたちはどう答えるのでしょうか。それは、人間は、そんなに強い存在ではない。また、サタンの誘惑は、そんなに甘いものではないということです。サタンに自らを明け渡すなら、わたしたちは、獣以下の存在になってしまうのです。
思いを殺す?
第二の声、「キリスト教は、自分の思いを殺して、キリストの教えに従う宗教なのか。なんと堅苦しい宗教だろうか」という声に対して、わたしたちは、どのように答えるのでしょうか。キリスト信仰、それは、自分の思いを殺して、キリストの教えに従うということではありません。そうではなく、古い罪の人、動物以下の存在、自分を滅ぼし、まわりの人々を傷つけ、滅ぼすしかない古い罪の人に死ぬことを、主は求めておられるということです。古い人、古い罪の人に死んで、新しい人、神の子として生きるようにと、主がわたしたちに求めておられるのです。
奇特な人々?
最後に、毎週、毎週、教会に集い、信仰生活を送っている。「なんと奇特な人々か」と言う人々に対して、わたしたちはどう答えるのでしょうか。わたしたちは、繰り返し繰り返し、神様のみこころ、イエス様のみこころより、自分の考え、自分の思い、自分の願いを先立ててしまうのです。ですから、わたしたちは、繰り返し繰り返し、原点に立ち返る必要があるのです。イエス・キリストの十字架と復活によって新しくされた者として、自分のためではなく、他の人の必要のために生きるようにと、わたしたちは、召されているのです。
(前川隆一牧師)