ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。                    ローマ3章21節
 
ローマの信徒への手紙の心臓部分と言える箇所です。

今や
わたしたちは、不条理なできごとを経験します。闇を経験します。そのような中で、わたしたちは、もがいています。ある人は、行いによって、ある人は、知識によって、ある人は、努力によって、その闇から這い上がろうとしますが、這い上がったと思ったら、また、奈落の底に突き落とされてしまう。そのような、罪の現実、闇の現実の中に、一条の光が差し込んだ、それが、「今や」ということばであるということです。

信仰の法則
わたしたちは、光としてお出で下さったキリストを信じ、受け入れ、世の光として生きるように召されています。では、わたしたちは、この罪の世、闇の世にあって、自分のがんばりによって光り輝いて生きるように召されているのでしょうか。そうではありません(27)。行いの法則ではなく、信仰の法則によって。ただ、キリストの信じる信仰によってのみ、キリストのものとされ続けて行くことができるのです。

甘いもの
最後に、ルターは、この神の義ということをこんな風に言っています。「神の義をこれまで私は深く憎んで来た。それだけに今は、それはいよいよ愛するべく、甘いものとなった。そのようにして、あの神の義を語るローマ人への手紙の箇所は、わたしにとって天国への門となった」。「神の愛」、「神の救い」がではなく、「神の義」が「甘いもの」となった、と言っています。「神の義」、それは、「神様が神様であること」ということを意味しています。「神様が神様であることを認める」「そのことを慕わしく思う」、そのとき、わたしがわたしとして慕わしいものとなって行くのです。また、わたしの前に神様が置いて下さったその人のことが、その人自身として慕わしい存在となって行くことを経験することができるのです。

(前川隆一牧師)