それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです。 ヘブライ2章17節
福音書は、幼子イエス様を連れて、ヨセフとマリアが神殿に上ったときのできごと(ルカ2章22~40節)、使徒書は、「救いの創始者」と表題のつけられている部分(ヘブライ2章10~18節)です。
時を見分ける者とされる
救い主としてお生まれになったイエス様を連れて、ヨセフとマリアが神殿に上ったそのとき、シメオンという老人が登場、幼子イエスを抱き、神をほめたたえました。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」と記されています。死を前にして、でも、ジャストタイミングで、神殿にやって来た幼子イエスにお会いすることができた。それは、聖霊の導きによることであった、ということです。わたしたちも、聖霊に導かれて歩むとき、正しく時を見分ける者としていただけるのです。
愛する者とされる
17節、「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです」と言われています。その「大祭司」は、「憐れみ深い」と言われています。その憐みゆえに人となって下さった。わたしたちの友と、兄弟となって下さった。それが、イエス・キリストというお方です。でも、憐れむということ、同情するということだけでは、問題は解決しません。もう一つ、「忠実な」ということが言われています。イエス・キリストは、わたしたちのために忠実に神のみこころに従い通して下さいました。それは、わたしたちに救いを与えるためにでした。わたしたちは、聖霊に導かれることを通して、愛する者としていただくことができます。それは、聖霊を通して、イエス・キリストを見上げることを通して、愛する者として下さるということです。
(前川隆一牧師)