では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。     ローマ8:31
 
「神の愛」と表題のつけられているところ、ローマ8章の最後の部分です。

もし神が味方であるならば
パウロは、「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と高らかに問いかけています(31)。それに対してわたしたちは、「アーメン」と応答する思いとともに、「自分は、パウロほどの信仰の域に達しているのだろうか」と応答するのを躊躇する思いが起こって来るかもしれません。でも、「神はわたしの味方である」。「だれもわたしたちに敵対することはできない」。その根拠は、わたしたちの努力や熱心さではなく、神の愛にあるのです(32)。

もし神がわたしたちの味方であるならば
38節で、パウロは、「わたしは確信しています。死も、命も、・・・わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言いました。ペトロも、この世的な考え方に引きずられて、道を誤ったり、失敗してしまうことがありました。そのとき、ペトロは、後輩であるパウロに叱責されて悔い改めます。わたしたちにも、主にある交わり、一人ではなくいっしょに主を礼拝する交わりの中で信仰を育んで行くことがたいせつです。

輝かしい勝利
最後に、37節に注目したいと思います。ここのところ、かつての口語訳聖書では、「勝ち得て余りがある」となっていました。「輝かしい勝利を収めています」、「勝ち得て余りがある」、それは、具体的には、どのような歩みなのでしょうか。神を信じていても、病気になります。災いに遭います。でも、その中で、それでも、「神はわたしの味方である」という確信と平安をもつことができる。そして、そのような確信と平安をいただいて、自ら試練の中にありながら、他の人に寄り添う者となって行く。それが、「輝かしい勝利を収めている」、「勝ち得て余りがある」者とされている、その生き方、歩みであるということです。

(前川隆一牧師)