兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。
マタイ21章29~30節
「権威のついての問答」、「二人の息子のたとえ」という表題の箇所です。
二人の息子のたとえ
後半の「二人の息子のたとえ」、それは、前半の宗教指導者たちがやって来て、イエス様に、「何の権威でこのようなことをしているのか」と言って詰め寄ったというできごとを背景として語られたたとえ話です。このたとえ話の弟の姿、それは、宗教指導者たちに、言わば、当てこすって語られたということができます。宗教指導者たちは、最終的に、イエス様のみもとに行くことはありませんでした。イエス様が備えておられる救いに入ることはできませんでした。何が、障害となったのか。それは、人を恐れる恐れからでした。また、それは、自分の自由が束縛される。脅かされるという恐れからでした。
イエス様からの問いかけ
第二に注目したこと、それは、疑問をもってやって来た、問いかけをもってやって来た、その宗教的指導者たちに対して、イエス様の方が逆に問いかけておられるということです。そして、それが、信仰生活であるということです。毎日の生活の中で、わたしたちは、いろいろな疑問を持ちます。それは、それで、ありのままに、主に打ち明け、ぶつけて行ったらよいのです。それは、それとして、主が、イエス様が、神様がわたしたちに問いかけて来られる。それに応えて行く。応答して行く。そこに、信仰生活が始まって行くというのです。
応答して行く力
第三に、その主の問いかけ、招きに応えて行くこと、応答して行くこと、それは、主がして下さることである。そのことを覚えたいと思います。神様がわたしたちに問いかけて来られる。それに応答して行く。それは、主がして下さることです。それは、主が、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と、自分の権利と自由を主張するわたしたちの人間の罪を引き受け、十字架で死に、復活して下さったお方だからです。
(前川隆一牧師)