神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いの通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。         Ⅱコリント7章10節

 

パウロが、コリントの教会のクリスチャンたちが悔い改めたことを喜んでいる箇所です。

パウロが受けた慰め
パウロは、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないこと」をここで、体験したのでした。「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」(6)。パウロは、気落ちする経験をしました。そのような中で、神によって慰められ、力づけていただく経験をしました。そして、わたしたちも同じ経験をすることができるのです。

パウロの喜び
第二に、覚えたいこと、それは、パウロの喜びということです。パウロがここで何を喜んでいるのか。それは、コリントのクリスチャンたちが悔い改めて、神に立ち返ったことを喜んでいるのです。つまり、他の人が神との阿関係を回復したことを喜んでいるということです。わたしたちも成長するにつれて、自分のことから他の人のことを喜べるようにされるのです。人の喜びを喜び、人の悲しみを悲しむ者とされるのです。このことは、わたしたちがどれほど信仰的に成長したかを計る一つのバロメーターです。

パウロの慰め、喜びの中心
最後に、パウロが、慰めを受け、励ましを受けた中心は何であったのでしょうか。10節、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いの通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」と言われています。コリントのクリスチャンが神の御心に適って自分の罪を悲しみ、悔い改めた。それこそが、パウロの慰め、喜びの中心でした。それは、パウロ自身、そのような悔い改めに歩んで人であったからでした。だからこそ、パウロは、神様からの慰めを受け取ることができたのでした。そして、そこにこそ、人の喜びを喜びとし、人の悲しみを悲しみとして歩むパウロの歩みの原動力があったのでした。

(前川隆一牧師)