皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

                            Ⅰコリント10章3~4節

 「五千人に食べ物をあたえる」、そして、「湖の上を歩く」、そう表題のつけられているところです。


「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた。」そう記されています(15)。ティベリウスという、かつての皇帝であり、王であった人の名前のついている湖の畔において、人々がイエス様を王としようとしたできごと。それが、今日のできごとでした。では、人々は、イエス様に対して、どのような王をイメージしていたのでしょうか。それは、モーセでした。モーセを通して、神様が、マナでユダヤ人を養われたように、荒れ野において、パンを与えて下さる解放者、王として、人々はイエス様のことを見、また、祭り上げようとしたのでした。

十字架の王
けれども、それは、イエス様がなろうとしておられる王の姿ではありませんでした。では、イエス様は、どんな王になろうとしておられたのでしょうか。2節を見ると、「大勢の群衆があとを追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とあります。病を負い、死に向かうわたしたち、そのわたしたちにゆるしを与え、いのちを与えるために、十字架で命を献げる、それが、イエス様が目指しておられた王の姿でした(ヨハネ19章19~22節)。

聖餐
ですから、第三に、このパンの奇跡、それは、実は、聖餐を指し示しています。イエス様が、五つのパンと二匹の魚を割いて、多くの人々を養われたように、今日、聖餐の設定のことばが読まれ、パンが割かれ、ぶどう酒が配られるとき、それが、世界中のどこであっても、そこにキリストがおられ、それを受ける人に、罪のゆるしと永遠の命の祝福を与えるのです。洗礼を通して、神の子としていただき、聖餐を通して、キリストのからだに与って、この地上の生涯を、希望をもって生きる。それが、わたしたちの信仰生活なのです。

(前川隆一牧師)