神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。

Ⅰヨハネ4章9節

「ぶどう園の労働者」のたとえと表題のつけられている箇所です。

目が悪いのか
このたとえの鍵になる一つのことば、それは、15節です。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」そう言われています。この15節の最後の部分、「ねたむのか」ということばですが、「目が悪いのか」そんな風にも訳すことができることばが使われています。これは、たいへん興味深いことだと思います。ねたみの罪、それは、わたしたちが心の中で犯す罪です。けれども、「目は心の窓」と言います。また、「目は口ほどにものを言う」とも言います。わたしたちの心、それは、わたしたちの目、わたしたちの目つきにそれが現れて来るということです。

神様の自由
第二に、今日の箇所を解く鍵、それは、先ほど、15節の後半に注目しましたが、今度は、15節の前半です。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」そう主人は言っています。この主人のことばに表されるように、神様は自由なお方ということです。わたしたちは、この神様をあれこれ詮索するのでなく、拝するように、礼拝するように召されています。

神様の自由の目的
神様は自由なお方です。とともに、第三に、神様の自由、それは、一つの目的をもって用いられます。それは、わたしたち人間を生かすためということです。では、わたしたちは、そのことをどこで確認することができるのでしょうか。それは、あのイエス・キリストの十字架を通して確認することができます。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。」(ヨハネの手紙第一4章9節)

わたしたちは、この主のまなざしを受け、目つきを変えていただく必要があります。目を明るくしていただく必要があります。それこそが、礼拝なのです。

(前川隆一牧師)