イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」         ヨハネ20章17節
 
イースターの朝のできごとです。

模範
マグダラのマリア、彼女は、わたしたち信仰者の模範である。そうルターは、言いました。けれども、それは、マグダラのマリアが、他の男性の弟子たちよりまさった信仰の洞察をもっていた。その点で、わたしたちの模範であるということでは決してありません。そうではなく、人間の知恵、人間の力によって、決して克服できない虚脱感を経験しながら、そこから、新しく歩み始めることができた。その点において、わたしたちの模範であるということです。

まだ理解していなかった
第二に、ペトロとヨハネについてです。彼らは、「見て、信じた」そう、8節に記されています。見て、信じた。それは、復活の事実を見て信じた、ということです。それにもかかわらず、ペトロもヨハネもすごすごと家に帰って行くのです。復活の事実というものが、ペトロの、ヨハネの力になっていないようです。なぜが、それは、彼らが、聖書のことばを、まだ理解していなかったからということです。わたしたちは、いっしょに礼拝をし、みことばの解き明かしを受ける。そのことを通して、聖書のことばを理解することができるのです。そして、キリストの復活がわたしの人生の力となる、ということを経験することができるのです。

受け留めて下さるお方
最後に、もう一度、マグダラのマリアに戻りたいと思います。マグダラのマリアは、深い虚脱感を経験しながら、けれどもそこから、新しく歩み始めて行きました。わたしたちもそうです。けれども、イエス様を信じたら、そうした虚脱感というものは、もうなくなるのかというと、そうではありません。信仰を与えられていても、深い虚脱感に襲われるということを経験するのです。でも、わたしたちの違うところ、それは、そのような恐れを、不安を、虚脱感を、訴え、受け留めて下さるお方をもっているということです。

(前川隆一牧師)