イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。            ヨハネ20章9節

イースターの朝のできごとが記されている箇所です。

もどかしさ
今日の福音書を読んで受ける印象、それは、第一に、女性が今日の箇所、主導権を取っているということです。男性の弟子たちの薄情さに対して、女性の弟子の情の深さということです。もう一つ、感じること、それは、もどかしさということではないでしょうか。それは、わたしたちは、主の復活ということを知っています。主が復活されたということをすでに知っています。そういうわたしたちから見て感じる、なんとも言えないもどかしさということです。

ピース
そのような「もどかしさ」がどこから来ているのか、それは、復活というピースがはまらない限り、福音のメッセージは完成しないというところから来ています。復活ということが正しく受け入れられない限り、福音のメッセージは完成しないのです(コリント信徒への手紙第一15章3~4節)。ぽっかりとピースが空いてしまっている、そのことから来る「もどかしさ」ということです。

突破口
「復活」、それは、最後のピースです。とともに、「復活」、それは、突破口でもあります。復活ということを信じ、受け入れることができたら、そのことを突破口として、わたしたちの信仰の世界は大きく開かれて行くのです。それは、聖書のみことばに照らして、キリストの復活ということを理解することがたいせつです(9)。わたしたちは自分で自分を救うことのできない罪人である、そのわたしたちの身代わりとして十字架で死んで下さった、それが、キリストの十字架なのです。そして、十字架を通して、救いの道が完成したということの保証としてキリストは復活して下さったのです。また、キリストが、わたしの身代わりになるためには、真の人であり、真の神でなければなりませんでした。キリストが、真の神であったとすれば、いろいろな奇跡を行うことも「それはできる」と信じることができるのです。

(前川隆一牧師)