だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。Ⅱペトロ3章14節

 
今日の使徒書は、ペトロの第二の手紙3章の主の来臨、主の再臨ということについて、ペトロが弁明しているところです。

結果に対して開かれた態度を持っている心の姿勢
アドベント、待降節のときを過ごしている今、特に14節に心を留め、「待ち望む」ということがどういうことであるのかをごいっしょに学びたいと思います。第一にそれは、結果に対して開かれた態度を持っている心の姿勢です。わたしたちは、往々にして、様々な願望に満たされているということが多いのです。けれども、「待つ」、「待ちのぞむ」、それは、「願望」ではなく、「希望」に満たされている心の姿勢なのです。

積極的な心の姿勢
第二に、それは、消極的な心の姿勢ではなく、積極的な心の姿勢です。「待つ」、「待ちのぞむ」、それは、「家宝は寝て待て」式に、何もしないで、ただただ神様の約束を待つだけで何もしないということではありません。エレミヤは、神様が与えて下さる解放、希望を待ち望みつつ、今置かれているところで、人々に仕えなさい。人々の祝福を祈りなさい、と命じ、自らもそのように生きました(エレミヤ29章)。「待つ」、「待ちのぞむ」、それは、消極的なことではなく、積極的なことであるということです。

命を受け取るということから始まって行く心の姿勢
第三にそれは、自分の中に成長し始めた命を受け取るということから始まって行く心の姿勢です。それは、新しい命を授かった母親にたとえることができると思います。新しい命が誕生するその日まで、母親は、その命を愛おしみ、待ち望みます。そのように、「待つ」、「待ちのぞむ」というとき、それは、自分の中に成長し始めた命を受け取るということから始まって行くのです。わたしたちは、キリストという命を受け取ったのです。今、すでに命を受けているのです。その命が成長して行くようにと待ち望む。それが、わたしたちが待つ、待ち望むということなのです。

(前川隆一牧師)