自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 ルカ14章27節
「弟子の条件」と表題のつけられている部分です。「塔を建てようとした人」のたとえ話、「一万の兵で二万の兵を迎え撃とうとする王様」のたとえ話、それだけを見ると、お金を、また、人間関係をいかに用いて行くかという人生の知恵を教えているたとえ話のようにも思えます。けれども、イエス様は、そのようなお金、財産ということ、それを残してくれる家族の絆ということ、さらには、わたしたちの命そのものさえ捨てなさい、と教えられました。ここで、イエス様が教えようとしておられることの中心は何なのでしょうか。それは、信頼ということです。神様に対する信頼ということです。では、どうして、それほどまでに神様、イエス様を、信頼するように命じられているのでしょうか。
大きなお方
それは、神様は、わたしたちより大きなお方だからです。カナンの地を探って来た12人の斥候、スパイ、そのうちの10人のスパイが自分たちとカナンの地の巨人とを比べたのに対して、二人のスパイ、ヨシュアとカレブは、神様とカナンの地の人々とを比べたので、おびえることはなかったのでした。
遠大な視点を持ったお方
また、神様は、わたしたちより遠大な視点を持ったお方だからです。三浦綾子さんは、星野富弘さんに「神様の布石」ということをおっしゃったようです。
愛なるお方
そして、神様は愛なるお方です。その愛は、あのイエス・キリストの十字架の中に表されています(ローマ8章32節)。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。わたしたちは、人間的な能力によって、神様に信頼することはできません。イエス・キリストが十字架で死んで、復活されたように、わたしたちも、日々、イエス様とともに古き人に死んで、新しく受け取り直した神の子としての命によって、神様に信頼して歩むことができるのです。
(前川隆一牧師)