いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。

                           詩編119編1節

詩編1編で語られている「幸いな人」というテーマの言わばクライマックスと言える119編です。

山上の説教

 その前に、今日の福音書、マタイによる福音書5章21~26節は、「腹を立ててはならない」と表題のつけられている部分です。イエス様は、ことばにしなくても、心の中で、「あの人さえいなければ」と思う。それもまた、聖い神様の前には、もうすでに殺人を犯していると同じである。そうイエス様はお教えになりました。このようなイエス様の教えに接して、わたしたちの内に起こって来る反応、それは、一方において拒絶ということ、もう一方において、自分のがんばりによって、その教えに従おうとする生き方ということです。

願望と義務

わたしたちの人生ということを考えてみるときに、二つの生き方があります。それは、先の二つの反応に重なることですが、「したいことをする」という生き方、「願望」の生き方、もう一つは、「しなければならないことをする」という生き方、「義務」の生き方です。「願望」だけを追求する人生、それでは、人間関係が成り立って行きません。けれども、しなければならないことが、いつまでもしなければならないことに留まっているとしたら、それもまた、充実した人生とは言えません。

詩編119編

ですから、しなければならないことが、したいことに結びついて行く、そんな道を探求する、そこに、充実した人生を見出して行く道があります。そして、そのような義務の生き方の中に、喜びを見出して行く、しなければならないことが、したいことに結びついて行く、そんな生き方を教えている、それが、今日の詩編119編であるということです。それは、この詩編作者にとって、律法、みことばが、愛する方からの掟であり、ことばだったからです(47)。そして、そのことをほんとうの意味で可能として下さった、それが、イエス・キリストであるのです。

(前川隆一牧師)