「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
マタイ5章7節

山上の説教の冒頭部分です。

憐れみに死んだような人
先日、一つの文章に心が留まりました。それは、「なまみの人間を恐れる恐れ」に取りつかれてしまったある小説家の方について書かれた文章でした。この方、それは、「憐れみに生きたい」と願いながら、それに挫折をしてしまった人と言えるのではないか。そう思いました。わたしたちは、このような方に、どんなアドバイスをすることができるのでしょうか。また、聖書は、そのような方に、どんな指針、光を与えているのでしょうか。

憐み
まず心に留めたいことは、この「憐れみ」ということばが、聖書の中でどのような意味で使われているかということです。聖書の「憐れみ」ということば、それは、情的と言うより、法的な色彩をもつことばが使われています。神の「憐れみ」、それは、神の「義」が貫かれることです。神の義、それは神が神としてふるまわれることです(第二テモテ2章13節)。

心の貧しい人々
もう一つ、心に留める必要のあること、それは、八つの幸いの第一、「心の貧しい人々の幸い」ということが、あとの七つの幸いにもかかっているということです。「心の貧しい人々」、「貧しさ」ということをイエス様はおっしゃいました。「貧しさ」と一言で言っても、いろいろなレベルがあります。聖書で、貧しいというとき、それは、破産をしてしまった人の状態です。わたしたちは、「憐れみ」においても、破産した状態、乞食のように、物乞いのように、神様に憐れみを乞う以外のない者であるということを、まず認める必要があるのです。破産した者として、乞食のように、物乞いのように、憐れみを乞うわたしたちに、神様は、キリストの十字架のゆえに、喜んで憐れみを注いでくださるのです。その憐れみを受けて、憐れむ者となって行くようにとわたしたち召されているのです。

(前川隆一牧師)