エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたら・・・。しかし今は、それがお前には見えない」。 ルカによる福音書19章41~42節
イエス様のエルサレム入城のできごと(28~44)、イエス様が宮きよめをなさったできごと(45~48節)です。今日は、特に、イエス様が涙を流されたということに心を留めて、みことばを学びたいと思います。
イエス様の涙
どうして、イエス様は泣かれたのでしょうか。それは、エルサレムが滅ぼされようとしている、その運命を思ってイエス様は涙を流されたのでした。では、その涙は、いわゆるセンチメンタルな涙だったのでしょうか。そうではありませんでした。このイエス様の流された涙と響きあっているのが、あの十字架上のイエス様の祈りのことば、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」ということばでした。イエス様は、エルサレムの滅亡を思って、ただただおろおろし、涙を流されたのではありませんでした。そのユダヤ人、イスラエル人の罪を背負って、十字架への道を歩んで下さったのでした。
神の訪れ
エルサレムが滅びた、それは、ユダヤ人の罪ゆえではありませんでした。罪の裁きの身代わりとして訪れて下さったイエス・キリストを彼らが受け入れなかったからでした。では、このイエス様の涙は、わたしたちとは何の関係もないのでしょうか。そうではありません。わたしたちも、日常生活の中で、キリストを主としていないなら、訪れて下さった主を締め出してしまっていることになるのです。
主の涙を理解する機会
逆に、わたしたちは、自分の願い、計画が打ち砕かれる経験をすることがあります。悲しみを経験し、苦難を経験することがあります。でも、そのことを通して、実は、主の涙を理解する機会とすることができるのです。わたしたちも、人生において様々な涙を経験します。でも、そのことを主の涙を理解する機会とし、悲しみの中にある人々に寄り添って行く者としていただきたくことができるのです(Ⅱコリント1章3~4節)。
(前川隆一牧師)