どこに軸足を置いていたか
身内の人々は、「日常を営んでいるその常識から外に出てしまっている」ということで、連れ戻そうとしたのでした。一方、エルサレムからやって来た宗教的指導者たちは、「律法の教えの外に出てしまっている」そう非難したのでした。身内の人たちは、常識に軸足を覆いて、イエス様を非難し、宗教的指導者たちは、自分たちの伝統、慣習に軸足を置いて、イエス様を非難したということです。
愛に軸足を置く
それに対して、イエス様は、どこに軸足を置いておられたのでしょうか。それは、愛に軸足を置いておられました。自分の立場、考え、主張をしっかりと持ちつつ、愛に軸足を置くイエス様は、いつも自由でした。わたしたちは、どのようにすればこのイエス様のような自由と愛に歩むことができるのでしょうか。
キリストのつながって
身内に人たち、そして、宗教的指導者たち、それは、人間の根本的な問題である罪を指し示しています。自分が基準、自分が神となっている、そこに、罪の本質があります。その罪の解決のために、神が人となられた。それが、イエス・キリストというお方でした。そして、その罪の解決のために、罪のないお方が死なれた。それが十字架のできごとでした。このキリストの十字架の救いを信じ、キリストにつながって、愛に軸足を置いて歩む者としていただくことができるのです。
(前川隆一牧師)