すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」  ルカ2章49節

 
イエス様が12歳におなりになったとき、過越祭に、両親のヨセフとマリアとともにエルサレムへ上って行かれたできごとです。

マリアの罪
「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。三日三晩、捜し回ったこれはマリアの当然のことばでした。けれども、ここにマリアの罪の性質が顔を覗かせていました。それは、わが子を、イエス様を所有物のように考えてしまうという罪の性質です。わたしたちの内側にも、家族を、身近の人を自分の所有物のように考えてしまう罪が潜んではいないでしょうか。さらに、そのことを広げて、わたしたちは、神様を自分の所有物のように考えてしまっているということはないでしょうか。

父の仕事
マリアのことばに対して、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」とお答えになりました。ここのところを、キング・ジェームズ・ヴァージョンという翻訳の聖書で読むと、「わたしの父の仕事で忙しくしていることを、なぜご存じないのですか」と訳されています。わたしたちも、神様を礼拝することを、しなければならないたいせつなこととする者とならせていただきたいと思います。

ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった
では、その後、どうなったのでしょうか。51節、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」と記されています。イエス様は、われを忘れて神のみことばを聴き、学ばれました。けれども、そこから帰って、両親であるヨセフとマリアにお仕えになりました。わたしたちにとって、神のみことばを聴き、神を礼拝するということは、仕事をするということと同じようにたいせつなことがらです。でも、それは、そこから遣わされて、人々に仕える者となるという目的をもっているのです。

(前川隆一牧師)