なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。                     Ⅱコリント5章10節

 
 パウロが、クリスチャンに与えられている希望について語っているところです。

希望
わたしたちが生きて行くために、「希望」というものはとてもたいせつです。けれども、ほんとうの希望、それは、死ということに解決を与えてくれるものでなければなりません。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(コリント信徒への手紙第二5章1節)。死を超える希望、それが、聖書が与えてくれる希望であるということです。

希望の根拠
さらに、その希望を保証してくれるものがあると、今日の聖書の箇所は教えています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです」(5節)。霊、聖霊が、そのことの保証となって下さる、ということです。聖霊、それは、キリストを指し示し、キリストを信じるようにと導いて下さるお方です。つまり、死を超える希望、それは、聖霊を通して、キリストを信じることを通して、与えられる希望であるということです。

目標
三番目に、そのような希望が与えられているわたしたちは、どのような目標に向かって生きるようにと招かれているのでしょうか。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。ここで、裁きの座とありますが、それは、「報いの座」と訳してもよいことばです。そして、「善であれ悪であれ」と言われていますが、これは、どういう動機でそれをしたのかということが評価されるということです。「報いの座」において最高のご褒美を神様からいただく、それが、わたしたちの目標なのです。

(前川隆一牧師)