わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。           ヨハネ15章5節

イエス様が「わたしはぶどうの木である」そうお教えになった箇所です。

予定?
よく読んで行くときに、引っかかりを覚える。それが、ヨハネ15章です。5節と2節を見ると、ある人は実を結び、ある人は裁かれるよう定められているようにも読めます。でも、そうではありません。一方において、みことばは、わたしたちに力を与えます。けれども、一方において、みことばは、わたしたちの罪を明らかにし、悔い改めさせるのです。それは、すべての人に対してそうなのです。

礼拝につながっていれば・・・
また、5節の最後のところ、「わたしを離れては」、それは何を意味しているのでしょうか。礼拝から遠ざかることなのでしょうか。もちろん、信仰の交わりはたいせつです。けれども、信仰の交わりとともに、しっかりとした悔い改めとみことばに対する信仰に根を下ろすということがたいせつです。それがなければ、根がない浮き草のような信仰生活となってしまいます。

実を結ぶ?
第三に、「実を結ぶ」ということ。それがいったい何を意味しているのでしょうか。神と人との前によいわざを行うということなのでしょうか。ただ、そのことを目的としてしまうとき、わたしたちは足もとをすくわれてしまいます。わたしたちは、実を結ぶようにと召されています。けれども、それは、父なる神様の栄光のために生きるようにと召されているのです。

わたしたちは、悔い改めとみことばに対する信仰に根を下ろすようにと召されています。父なる神様の栄光のために生きるようにと召されています。けれども、その前提となることがらがあります。わたしたちが受けるべき裁きを、イエス様が身代わりに十字架で受けて下さった。このイエス様の十字架の愛によって、わたしたちは、悔い改め、立ち返る者としていただくことができるのです。そして、実を結ぶものとしていただくことができるのです。

(前川隆一牧師)