わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。           ヨハネ15章5節
 

「わたしはぶどうの木である」そう弟子たちにお教えになった箇所です。

主の剪定
一方において、みことばは、わたしたちに力を与え、いのちを与え、愛を満たして下さいます。けれども、一方において、みことばは、わたしたちの罪を明らかにし、悔い改めさせ、神様のみこころに歩むようにと導いて下さるのです。それは、すべての人に対してそうなのです(ヘブライ人へ手紙4章12節)。わたしたちは、この父なる神様の剪定、みことばによる剪定を必要としているのです。そして、わたしたちの主にある交わりも、また、一方において、その交わりによって、養われ、燃やされ、守られるものであるとともに、もう一方において、罪を明らかにし、悔い改めさせ、神様のみこころに歩むようにと導くものでなければならないのです。

剪定を受けて下さった主
けれども、わたしたちは、人間的な立派さによって、そのように、悔い改め、神様のみこころに立ち返って行くのではありません。わたしたちが、父なる神様の剪定を受ける前に、イエス様が剪定を受けて下さったのです。わたしたちが受けるべき裁きを、身代わりに十字架で受けて下さったのです。このイエス様の十字架の愛に押し出されて、わたしたちは、悔い改め、立ち返って行くことができるのです。

つながる
ヨハネ15章で繰り返されている、それは、「つながる」ということばです。ここで使われている「つながる」ということば、それは、「留まる」、あるいは、「住む」とも訳すことができることばです。わたしたちは、キリストの十字架の愛がわたしの中に沁み込んで来るまでに、キリストの中に留まるということが勧められています。そのように、キリストの愛に留まり、キリストの十字架と復活を通して表された神のみわざ、神の愛をしっかりと見つめて行く。そして、そのようなキリストの十字架の愛に押し出されて、わたしたちは、悔い改め、立ち返るようにと召されているのです。そして、実を結んで行くようにと招かれているのです

(前川隆一牧師)

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