人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。  ルカ19章10節

徴税人ザアカイの救いのできごとです。


 教会の来始めた方が戸惑われることの一つに、罪ということばがあります。「自分は、警察のお世話になったことなどありません」と、反発される方もあります。けれども、聖書が罪と言うとき、そのような法に触れる犯罪ということを言っているわけではありません。聖書が言う罪、それは、神様が本来生きるように意図されたところから的を外している。失われた状態にある。それが、聖書の言う罪と言うことです。ザアカイは、まさに、そのような失われた状態にありました。

救い
 ザアカイは、失われた状態にありました。そして、そのザアカイは、救われるということを経験しました。救いというとき、それは、本来あるべきところに帰るということです。人々から嫌われていたザアカイ。そんなザアカイを、イエス様に見つめ、名前を呼び、客となって下さいました。ちょうど、北風と太陽のお話のように、太陽のようなイエス様の温かいまなざし、声、態度に接して行ったとき、ザアカイは、仮面を脱ぎ、鎧を脱ぎ、本来の自分をとり戻ることができたのでした。自分がほんとうに生きたいと思う自分に帰ることができたのでした。

ぜひあなたの家に泊まりたい
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5)。直訳すれば、「あなたの家に泊まらなければならない」ということになります。イエス様は、たびたび、「わたしは・・・しなければなりません」とおっしゃいました。イエス様は、父なる神様のご意志、みこころに従って歩まれました。そして、それは、十字架の死へと続く歩みでした。救い、それは、自分との和解であり、人と人との和解ということをもたらして行きます。しかし、それだけにとどまらない。キリストの救い、それは、永遠に神と和解し、神の子とされ、永遠の命を受け継ぐという祝福をも含んでいるのです。そのことを実現するために、キリストは、十字架への道を歩まれたのでした。

(前川隆一牧師)