預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。        マタイ10章41節
クリスチャンが、どのような存在とされているかを確認することができる箇所です。

預言者
まず、「預言者」ということ。「預言者」と言うと、エリヤや、ダニエルなどを思い浮かべるかもしれません。けれども、聖書において、最初の預言者とされている、それは、アブラハムなのです。アブラハムは、神様から預言のことばを授かって、人々に語るということはしませんでした。けれども、神のことばに従って生きるとはどのようなことであるのかということ。また、神のことばに従って生きるときに、どのような祝福に与ることができるかということを、その生き方を通して、存在を通して示して行きました。そういう意味で、わたしたちも「預言者」、神のことを預かった者なのです。

小さな者
第二に、そのように預言者としてわたしたちが生きるその現実ということについて考えてみたいと思います。それが、「小さい者」ということです。預言者として、神のことばを預かる者として生きようとするとき、わたしたちが経験する現実、それは、自分自身の小ささということです。自分自身の弱さということです。自分自身の欠けということです。

正しい者
わたしたちは、預言者として歩むようにと召されています。神のことばを預かる者として歩むようにと召されています。その現実の中で、経験する、それは、弱さということです。小ささということです。それにもかかわらず、わたしたちは、愛をあきらめてはならないのです。では、わたしたちは、そのような戦いの中にあって、葛藤の中にあって、何を土台として、預言者として、神のことばを預かる者として歩み、歩み続けることができるのでしょうか。それが、「正しい者」ということです。かつての口語訳聖書では、「義人」と訳されていました。神様によって、「正しい者」とされた人、「義人」とされた人、それが、「正しい者」であり、「義人」ということです。わたしたちが預言者として、神のことばを預かる者として歩み、歩み続けるその土台、それは、わたしたちの外に、キリストの十字架と復活にあるのです。

(前川隆一牧師)