なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の人がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。           Ⅱコリント5章14節

 
土の器であるわたしたち、しかし、キリストという宝を内にいただいているわたしたちの生き方ということを、別の角度から語っている箇所です。

おそれ
「主の対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」(11)。その第一は、主を畏れる生き方です。「健全なる肉体に、健全なる精神が宿る」ということが言われます。しかし、このことばの出典は、「神よ、健全なる肉体に健全なる精神を宿らせた前」という祈りでした。では、健全な精神とは、どんな精神であるのか。それは、パウロのことばを借りて言えば、まさに、「主をおそれる心」であるということです。

愚か
「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであり、正気であるなら、それはあなたがたのためなのです」(13)。パウロは、決して、マインドコントロールされた人のように、どんな人に対しても同じことばを繰り返すというような人ではありませんでした。それでも、パウロは、ある人々からは正気を失っていると思われました。それは、福音そのものが、人間的な知恵からすれば愚かなものだからです。また、その福音をパウロが伝えようとしたからでした。わたしたちも、パウロのように、愚かな者となって、福音を伝えるようにと召されているのです。

キリストの愛
では、そのようなパウロの生き方の原動力はどこにあったのでしょうか。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の人がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」(14)。わたしたちも、キリストの十字架にあらわあれた神の愛を原動力とし、神のみこころを行い、復活の証人として歩むようにと召されているのです。

(前川隆一牧師)