わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 マタイ5章17節
山上の説教の続きです。
地の塩
まず、わたしたちは決して手の届くことのない理想に生きるようにと召されているのでしょうか。理想主義と自然主義、実は、わたしたち信仰者にとって、それは一つのことなのです。わたしたちは、古い人として、自分が罪人であるということをありのままに認める必要があります。とともに、主にあって、新しくされた者として、理想に生きるようにと召されているのです。
律法を完成するために
第二に、17節のイエス様が「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃったおことばをわたしたちはどのように受け取ったらよいのでしょうか。確かに、聖書は、わたしたちが救われるのは、恵みのみによると言っています(エフェソ2章8節)。けれども、主がわたしたちに下さる救い、それは、安心して座り込む救いではなく、安心して立ち上がることができる救いであるのです。イエス・キリストを信じることを通して、渇きをいやしていただいたわたしたちは、別の渇きをもつ者とされるのです。それは、「義に飢え渇く」という渇きです。それがないとしたら、わたしたちは、どこかで、信仰の動脈硬化を起こしているのです。神様の恵みがつまってしまっているのです。
アップデイト
では、どうすればいいのでしょうか。日々、古い人に死に、新しい人として誕生するという洗礼のリズムに生きることを通して、価値観を、世界観をアップデイトして行く。それが、信仰の歩みなのです。そして、それは、ある場合には、「心がもぎ取られるような経験」を伴うのです。けれども、その痛みを、主がともに負って下さるのです。また、その痛みを通して、わたしたちは、主の十字架のお苦しみ、痛みの何分の一かを知る者とされるのです。
(前川隆一牧師)