ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 コリント信徒への手紙第二4章7節
信仰に生きるとはどのようなことか、をパウロが端的に語っているところです。
土の器
わたしたちは、もろく、弱く、疲れやすい肉体をもったお互いです。わたしたちの肉体と、心と霊とはつながっているのです。どんなに霊的に目を覚ましていようとしても、肉体的に疲れていたなら、霊的に朦朧としてしまうのです。そういうときには、思い切って体を休ませることがたいせつです。神様からいただいた体を大切にするということ、それは、とても重要なことです。
キリストという宝
第二に、パウロは、その肉体に関してこんな風に言っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7)。わたしたちは、もろく、弱く、疲れやすい肉体をもったお互いです。けれども、その弱さを通して、キリストという宝が輝き出る、そんな人生をわたしたちは歩むことができるのです。それが、今日覚えたい第二のことがらです。
外なる人は衰えても
第三に、パウロは、こんな風に言っています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は、日々新たにされていきます」(16)。わたしたちの肉体と心と霊とはつながっています。体が疲れているときには、心も霊もその感覚が鈍くなるということを経験します。でも、逆に、肉体の弱さを経験すればするほど、霊的に研ぎ澄まされて行く。そんな経験をもわたしたちはすることができるのです。
わたしたちは、やがてキリストにあって栄光の体を着せていただくという望みを抱きつつ、与えられたこの肉体のからだをたいせつにしながら、この弱く、もろく、小さいわたしを通して、キリストが現わされて行く、そのような歩みへと、主にあって、歩んで行くようにと召されているのです。
(前川隆一牧師)