「家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」 ルカ15章6節
「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえとです。
天の父なる神様のみこころ
「見失った羊」のたとえを歌った讃美歌があります。その讃美歌とルカ15章のたとえ話と、どこがどう違っているのでしょうか。讃美歌は、「羊は、どれほど、心細く、さびしく、こわかったことか」ということを歌っています。けれども、ルカの15章が語っている、それは、そのような羊の気持ちではなく、「天の父なる神様のみこころ」ということです。わたしたちは、横を見て、不平を言います。また、自分を見て、つぶやきます。けれども、それだけだと救いはないのです。そのような現実の外側から訪れて下さった。それが、福音であり、「天の父なる神様のみこころ」なのです。
悔い改め
第二のこと。讃美歌の最後の節、父なる神様のふところに帰った平安、喜びということが歌われています。一面において、アーメンです。ただ、もう一面においてそうではない。それが、わたしたちの現実です。主を信じて歩む歩みの中でも、つい主から目を離し、人を見、自分を見て、つぶやき、落ち込んでしまう。それが、わたしたちの現実です。そのたびごとに、わたしたちは悔い改めて、失われしまったわたしたちを探し出し、救い出そうとして下さる「天の父なる神様のみこころ」に立ち返る必要があるのです。
招き
そして、第三のこと。「楽しく我が世を おくらまほし」、それは、マイホーム的な幸せ、平安ということを歌っているのではありません。自分さえよければという幸せ、平安ということをうたっているのではありません。「天の父なる神様のみこころ」にともに生きるようにと招いて下さっています(6)。それは、主を模範としてということでは決してありません。主がこのような迷い出た罪人を探し出し、救って下さったという救い、十字架の救いを受け取り、新しい者とされたわたしとして「天の父なる神様のみこころ」にともに生きるようにとわたしたちは、招かれているのです。
(前川隆一牧師)