あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
                                 ルカ15章4節
「見失った羊のたとえ」と「無くした銀貨のたとえ」の箇所です。

天の父なる神様のみこころ
わたしたちは、わたしたちのまわりの人の気持ちを確かめたいと願います。そして、それに対して、その人が示してくれるしるし。そのしるしによって、立ちもし、倒れもする、それがわたしたちです。そんなわたしたちに対して、そのような横の関係ではなく、縦の関係において、わたしたちを造り、わたしたちに命をお与えになった神様がわたしたちのことをどう思い、どのようなまなざしを向けておられるのか。それが、この二つのたとえ話です。このわたしという存在を、神様は、尊いもの。かけがえのないものと見て下さっている。それは、わたしたち一人ひとりが、神様のもの、神様にとってのかけがえのない宝物と見て下さっているということです。

天の父なる神様のみこころの深さ
第二に、その天の父なる神様のみこころの深さということ。植物であれば、心を込め、愛情を注いで、たいせつに育てたなら、芽を出し、花を咲かせます。けれども、人間は、神様が、心を込め、愛情を注いで、たいせつに育てても、道をそれ、ねじ曲がってしまう、そんな罪をもっています。そして、その罪のどん底の中でうたわれた、それが、今日の詩編51編です。わたしたちも、ダビデと同じ、どん底の罪をもっています。けれども、神様は、なお罪人であるわたしたちに心を向け、まなざしを向けて下さっている。そのしるし、それこそが、キリストの十字架であるということです。

天の父なる神様のみこころの長さ
第三に、その天の父なる神様のみこころの長さということ。わたしたちは、キリストの十字架によって、救い上げていただきました。けれども、繰り返しもたげて来る、それは、頑なな心です。人を愛せない心。赦せない心です。そのわたしたちが、繰り返し、繰り返し、イエス様といっしょに喜ぶ者、イエス様の心を心とする者と立ち返って行くよう招かれているのです。それは、自分のがんばりによってそうするのではなく、聖霊によるのです。

(前川隆一牧師)

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