マルコによる福音書2章23節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは、歩きながら、麦の穂を摘みはじめた」
イエス様が先頭に立って、麦畑をかき分けながら、弟子を後ろに従えて、歩いておられる姿。どちらかと言えば、さっそうとではなく、ぞろぞろ。
イエス様は常に私たちの先に立って、導いてくださるお方です。ただイエスに従っている。それだけでよしとされている。
神様がこの世に来てくださったこと自体、まさにおどろくべき恵みですが、私たちの先になってくださるイエス様。人生の歩みの中で、私たちが気が付いていないときに、イエス様はまちがいなく、共にいてくださって、共に歩んでくださる、こんなうれしいことはありません。
イエスキリストは王であり、大祭司、預言者としてこの世に来られた神様です。そのイエス様が、弟子を連れて、麦畑に安息日に入って、穂を摘む。このことは王であり、大祭司であるこの権威ある者として、してもよいことなのです。なぜなら、イエスキリストは生ける神様であるからです。
ダビデが空腹の時に聖別の供えのパンを祭司から受け取って食べたことは、例外規定です。油注がれた王であり大祭司であるイエスに従う弟子たちの行動はまさにこの例外規定であり、イエス様が共にいてくださるから赦されるのです。私たちが救われているのも例外規定です。
イエス様はファリサイ派の人々に安息日の本当の意味をお教えになるために、あえて、このような行動をお見せになったのです。
またイエス様が麦畑をかき分けながら歩まれる姿は、まさに聖書の中にイエス様がみことばとなって生きておられる姿ではないでしょうか。「弟子たちは麦の穂を積み始めた。」これは、イエスに従う私たちが、聖書のみことばをいただいている姿と重なります。麦畑が聖書で、麦の穂がみことばです。私たちは、聖書のみことばによって、命を得ているのです。
罪のために滅びに向かって歩んでいる人間を救うためにイエスはこの世に来て、十字架に架かり、罪を滅ぼしてくださいました。そのイエスに従う者を、弟子たちを守られたように、完璧に守ってくださいます。私たちは安息日である日曜日に礼拝に与かっています。弟子たちを従えて安息日に麦畑を歩かれたイエスは、今も生きて働かれ、私たちにとって「安息日の主」として共にいてくださいます。まさに喜びの安息日です。
(観寺正和師)