「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」 ルカ15章9節
「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえとです。
見失ったもの
二つのたとえに共通していること、それは第一に、「見失った」ものということです。見失ったもの、それは、羊、ドラクメ銀貨。それを捜すのは、羊飼い、一人の女性です。そして、この羊飼い、一人の女性、それは、失われた罪人を見つけ出して、取り戻したいと願っておられる神様のことを表しています。エフェソ2章1節に、「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と記されています。肉体は生きていても、造り主なる神様との関係が断絶している状態、それは、霊的に死んだ状態、失われている状態であるのです。そんな罪人に対する神様のまなざしということが、このたとえ話で表されているのです。
捜す
第二にそれは、それを取り戻すために熱心に「捜した」ということです。神様は、失われた罪人を「かわいそうに」と高みから見下ろしているだけのお方ではありませんでした。神様は行動を起こされた、と聖書は記しています。それこそ、イエス様が天の栄光を捨て、神が人となられた。そして、仕える者として歩み、十字架の死に至るまで仕え尽して下さったというイエス・キリストのできごとを指し示しているのです。
喜び
第三にそれは、取り戻したときの、友達や近所の人をも誘わずにおれないほどの「大きな喜び」ということです。「見失った羊」のたとえでも、「無くした銀貨」のたとえでも、友人や近所の人々を呼び集めて、「一緒に喜んで下さい」と人々を喜びへと招いています。神様は、わたしたちが救われるためのすべてのこと成し遂げた上で、この喜びを一緒に喜んで下さい、とわたしたちを招いて下さっているのです。わたしたちは、救われるために、何もする必要はありません。でも、救われた者として、神様の喜びを喜びとして歩むようにと招かれているのです。
(前川隆一牧師)