見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、なんという喜び。」そううたわれている。 133編1節
福音書は、弟子たちに、主が復活のお姿を現されたできごと、その一週間後、トマスのためにと思えるほどに、もう一度、復活のお姿を現されたできごとです。
教会の始まり
トマスは、イエス様を主と告白しました。その背後に、他の弟子たちの愛があり、とりなしがあり、祈りがあった。そして、これらのできごとがあった、それは、日曜であった。これは、まさに、キリストを頭として、兄弟姉妹とされるキリスト教会の始まり、原型と見ることができます。今日の詩編は、兄弟が和合することの祝福をうたっている詩編133編でした。けれども、そこでうたわれている、それは、ユダヤ人という枠の中での祝福でした。そのユダヤ人という枠を超えて、ユダヤ人も異邦人もともに、兄弟姉妹として、その絆を確認し合う者とされた、それが、キリストを頭とするキリスト教会ということです。
兄弟が和合することのむずかしさ
兄弟の和合ということ、それを、ユダヤ人という枠を超えて、広げて行く存在となって行った、それが、キリスト教会であるということです。けれども、それは、決して容易なことではありません。旧約聖書を見ると、兄弟同士が和合し、愛し合うより、憎み合い、傷つけ合うできごとが数多く記されています。わたしたちの交わり、主にある交わりの中にも、カインの霊が働いていることを覚える必要があります。「ハリネズミのジレンマ」ということばがあります。わたしたちは、同じような重荷を抱えた者同士、共感し合うことができます。けれども、それだけだと、わたしたちは、お互いの罪の針によって傷つけ合ってしまうのです。では、どうすればよいのでしょうか。詩編133編2~3節で言われている「油」とか「露」、それは、聖霊を表しています。わたしたちは、交わりの中心に、主の十字架の赦しを据えることが必要です。復活の命に与ることを据えることが必要です。そして、聖霊を受けることが必要なのです(ヨハネ20:22~23)。
(前川隆一牧師)