「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」                ヨハネ6章27節
向こう岸までイエス様を追いかけて来た人々とイエス様との問答の箇所です。

聴く
そのような今日の箇所を味わいながら、それでは、イエス様を王として生きるということはどのようなことなのでしょうか。それは第一に、王であるイエス様に聴くということです。人々が、24節、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。それは、いつの間に、わたしたちの手をすり抜けてしまわれたのですかという非難の思いが、込められていました。自分の思いを優先させて、イエスをそれに従わせようとする。それが彼らの生き方でした。

日ごとに聴く
第二に、日ごとに聴くということを、主はわたしたちに求めておられます。人々は、イエス様に、34節ですが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願いました。これは、主の祈りの「われらの日用の糧を今日も与え給え」という祈りと同じであるようにも思えます。けれども、イエス様は、「今日も」と祈れとお教えになりました。イエス様は、信仰、それは、「今日も」の世界である。昨日の信仰で、今日養われることはできないと教えられました。

聴いて従う
第三に、王であるイエス様に聴き、行動するということを、主はわたしたちに求めておられます(27)。実は、あのパンの奇跡も、主に信頼するとともに、弟子たちが主に従って行動した。主に従って働いたから起こった奇跡でした。それに対して、人々は、自分たちが行動しようとは思っていませんでした。ただただ、恵みを取り込もう、取り込もうとしている。それが、イエス様がご覧になった人々の姿でした。

最も大きな奇跡、それは、神が人となって下さったという奇跡です。そして、そのお方が、わたしたちの罪を負い、命を献げて下さったのです。その救いを受けて、わたしたちは、主に聴く者としていただくのです。順境の日も、逆境の日も、日ごとに、主に聴く者としていただくのです。そして、主に聴いて従う者、行動する者としていただくのです。

(前川隆一牧師)