そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書31415
 
神様のみもとからこの世に人として生まれ、神様を示されたイエス様が語られた「上げられねばならない」とは、十字架にかかり、復活後天に上げられることを意味しています。
 
裁きと救い
イエス様の十字架と、モーセが荒野で上げた蛇(旧約聖書の民数記21章)には共通点があります。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、食べ物も水も乏しい荒れ野で神とモーセに度々逆らった結果、猛毒の蛇にかまれて多くの人が死にました。
彼らが自分たちの罪を悟り、助けを求めると、神は猛毒の蛇を取り除くのではなく、青銅の蛇を旗竿の先に掲げて仰ぎ見よと命じられたのです。神から送られた蛇は、罪人を裁くとともに癒し救いました。御子イエス様を受け入れるか否かは、人の行く末を決定しますが、神が御子を遣わされたのは、自分の罪と過ちの中で霊的に死んでいた私たちを救うためでした。イエス様は、裁かれる他なかった私たちの罪を十字架上で身代わりに背負われ、私たちをイエス様と共に生かし、肉体の死の後にも続く永遠の命を与えてくださいました。
 
恵みによる救いと信仰
また、イスラエルの民が青銅の蛇を見上げるだけで救われたように、私たちはイエス様の十字架をわが罪のためと信じ、仰ぎ見るだけで救われます。ルターが宗教改革で強調したように(信仰義認)、救いは自らの行いによるのでなく、神の恵みの賜物です。生まれつきの人の罪の性質は、自分が望まない悪をも行わせ(ローマ7章)、最初の人間アダムとエバと同様に人への責任転嫁、争い、不和等の様々な問題を引き起こし、人を苦しめます。自らの力や努力では罪に到底勝てない無力な私たちに、神様の側から一方的に救いの道が差し出されました。それをただイエス様の十字架を仰ぎ見る信仰を通して受け取るのです。
 
神の約束と愛
救いはイエス様を信じる者への現在の確かな約束で、そのしるしの洗礼は人を新たに生まれさせ、洗礼で与えられた聖霊は罪を清め、神が予め準備された善い業を行わせてくださいます。独り子を十字架の死にまで渡された神様の大きな愛は決して変わることがありません。苦しみ悩む時も、信仰によって十字架を見上げて歩みましょう。

(松田朋子神学生)