「道」は、ルートや行程を、人生のあり方や心構え、生きがいをさえ表します。よく見て考え、ゆく道を決断しなければなりません。信仰は道の選択に関係しますが、私たちが選んだのではなく、主なる神が備えてくださったのです。
主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。唯一、イエス様は確かな道、真理、命ですから、誰もこの方によらずに、天の父なる神のもとにいくことはできません。イエス様と切り離して天に住まいを望めません。イエス様は、「行って場所の用意ができたならば、また来て、あなた方を、わたしの所に迎えよう。」と言われます。主のそばに迎えられることが御国に与ることです。主が場所を造られるからです。それで、主イエスは「また来て‥」と言われます。
ご復活の主はペトロに顕れました。「‥あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩き回っていた。‥これからはわたしに従ってきなさい。ペトロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになった。」(21:18,19)。ペトロは死においても、主イエスについて行きます。
キリスト・イエスが「また来て‥」お導きくださるのは、歴史の終わり、ご再臨のときだけではありません。あなたに顕れ、いのちの道に導かれます。肉体の朽ちる死において、キリストは来られて天の住まいに、御国の交わりに迎えてくださいます。
(池上 安師)