中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。  マルコ7章21~22節
 
エルサレムからやって来たユダヤ教の指導者たちとイエス様とのやりとりの箇所です。

けがれの本質
この箇所において問題となっている、それは、ひと言で言うと、「けがれ」ということです。ユダヤ教の指導者たち、彼らは、「けがれ」それは、「日常生活」の中で受けるものであると考えました。「けがれ」それは、外から来ると考えました。それに対して、イエス様は、「けがれ」それは、人間の内側に原因がある。「けがれ」の本質は、外ではなく、人間の内側に、その本質があるとお教えになったということです(21~22節)。

きよめ、救いの本質
では、わたしたちは、そのような内側の罪を、自分のがんばりによって、自分の努力によって、内側から清めるようにと召されているのでしょうか。わたしたちの「きよめ」の本質、「救い」の本質、それは、わたしたちの内側にあるのでしょうか。そうではない。それは、わたしたちの外にある。そう聖書は教えています(ローマ5章8節)。わたしたちの内側の努力やがんばりではなく、わたしたちの外で、キリストが十字架で死んで下さったのです。そして、罪の贖いとなって下さったのです。その救いを、恵みとして、信仰をもって受け入れる。そこに、「きよめ」の本質、「救い」の本質があるのです。

「けがれ」の本質それは、わたしたちの内側にあります。その「けがれ」のきよめ、救いの本質は、外側に、キリストの十字架にあるのです。そして、その十字架の救いを見上げ、受け入れるとき、神様は、わたしたちを神の子とし、ご自身の聖霊の宿る宮、神殿として下さるのです。わたしたちの存在、それは、罪人であり、同時に、キリストを信じる信仰によって、神の子、聖霊が宿ってくださる神殿とされた存在であるのです。

(前川隆一牧師)