キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 テトス2章14節
パウロが、クレタ島に建てられた教会の牧師テトスに宛てて書き送った手紙です。
健全な教え
まず、どんな生活を送るか、「健全な教え」ということに関して、パウロは勧めをしています。パウロは、「節制」するように、「思慮深く」あるように、自分を正しくコントロールするようにと教え、諭しました。それは、究極的には、「愛する」ということでした。また、パウロは、生きた信仰をもって歩むようにと勧めました。「健全な教え」ということに関して、パウロが勧めたこと、それは、生きた信仰をもって愛する者として生きるように、ということでした。
健全な福音
生きた信仰をもって愛する者として生きるように、とパウロは勧めました。けれども、それは、決して人間の努力やがんばりによってできることではありません。恵みにより、信仰によって、キリストの救いを受け取って、その恵みにより、いのちによって、そのように生きることができる者とされるのです(14)。わたしたちは、恵みにより、信仰によって救われました。そして、その信仰も、みことばにより、聖霊により、神様が、わたしたちの内に造り出して下さったものなのです。この福音に、わたしたちは、絶えず立ち返って行くことが必要です。
キリスト千辺ベツレヘムに生まれるとも
今日は、福音書は、クリスマスのできごとを記している箇所が読まれました。中世の詩人、シレシウスという方は、「キリスト千辺ベツレヘムに生まれるとも、汝の心のうちに生まれずば、汝なお永遠に救われず」と言いました。「健全な福音」ということ、「健全な教え」ということ。でも、それを頭で知っているだけでは十分ではありません。それを受け入れ、受け入れた者として生きるということがわたしたちに求められています。クリスマスに人としてお出で下さったキリスト、わたしたちのために十字架で死ぬためにお出で下さったキリストを心深くお迎えし、まことのクリスマスをお祝いする者とならせていただきましょう。
(前川隆一牧師)