イエス・キリストという既に据えられた土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 コリントの信徒への手紙第一3章11節
今日の福音書は先週の続きで、マタイによる福音書5章の「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」と表題のつけられている部分です。
律法を完全に守れるのは
イエス様は山上の説教で、律法を外側の行為だけで守る態度を越えた、聖い神様のみ心を明らかにされました。生まれながら罪と弱さを持っている私たちが、「敵を愛しなさい」という高い基準を実行することは到底できません。しかし、イエス様はののしられてもののしり返さず、正しくお裁きになる方に任せ、十字架上で私たちの罪を担われました(ペトロの手紙第一2章23-24節)。ただ一人、律法を全て守られた、罪なき完全なお方だからこそ、イエス様は私たちの身代わりに罪の裁きを受けることがおできになったのです。
土台はキリストの十字架による救い
私たちの信仰生活の土台は、イエス様の十字架による救いです。イエス様の行いを模範として自力でがんばるのではありません。律法は私たちの罪を明らかにしますが、私たちはそのままイエス様のみもとに行き、何度でも赦され清めていただくのです。イエス様を信じた時に神様の子供とされている私たちは、神の国が実現する終末の時にその豊かさを完全に受け継ぎ、全き者とされます。しかし、私たちはこの世においても神様と共に歩む中で、神様のご性質を受け継いでいます。新しい命に生かされる私たちの内に聖霊が住まれ、イエス様とみ言葉を示し、私たちの心を照らして悔い改めに導かれます。そして私たちは良い実を結び、頂いた自由を愛によって互いに仕え合うために用いるようになります。
赦しと和解のために
今日の箇所は「赦しと和解」を目指すものです。「目には目を」は復讐の上限を定めた規定でしたが、仕返しはすぐにエスカレートして憎しみを拡大再生産します。敵を赦すことは難しいですが、神に敵対していた私たちのためにキリストが死なれ、神の愛を示してくださいました(ローマの信徒への手紙5章8、10節)。その結果、キリストが持つ一切の宝と祝福が私たちに与えられ、代わりに私たちの一切の不徳と罪はキリストが負われます。それゆえ私たちも、人を赦し、隣人を愛して、その重荷を負う者へと変えられるのです。
(松田朋子神学生)