また、あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を恐れて生活すべきです。 Ⅰペトロ1章17節
神様を畏れて生きる
クリスチャンの生活、それは、神様を畏れて生きる生活です(17)。わたしたちは、イエス・キリストを信じることを通して、真の神、世界、宇宙を創造し、今も歴史を導いておられる真の神様とお出会いします。そして、まちがった神観、まちがった恐れ、迷信的な恐れから解放されるということを経験します。でも、それとともに、恐怖の恐れではなく、畏れ敬う畏れをもって、神様のみこころに歩みたいと願うようになる、それが、クリスチャンの歩みです。
目を覚まして生きる
では、具体的に神を畏れて生きるとは、どのような生き方なのでしょうか。今日の箇所の少し前の13節には、「身を慎んで」ということが言われています。これは、他の聖書の箇所では、「酒に酔わずに」と訳されていることばです。酒に酔わないで、「しらふ」でということ。神を畏れて生きる、それは、具体的には、しらふでいる、目を覚ましている、現実から目を背けないで生きる、それが、クリスチャンの歩みです。
とともに、何のために目を覚ましているのか、ということもたいせつです。何のために目を覚ましているのか、それは、仕えるためにです。仕えることのできる用意のできている僕、それが、クリスチャンの姿です。
神の祝福の中で現実を見る
目を覚ましているということ、現実から目を背けないということ、けれども、ここで一つの問題があります。わたしたちが、現実から目を背けないで目を覚ましている、そのことに真剣に生きようとするなら、わたしたちは悲観的になってしまうということです。ですから、目を覚ましているというとき、それは、神様の祝福の中で現実を見るということがたいせつです。ルターは、「『キリストは死より復活された』ということばによく注目し、一字が塔のように、いや、天と地ほどに大きな文字で書くべきである」と言いました。
(前川隆一牧師)